幸手市の歴史と6つの指定文化財を紹介
- 幸手市コラム
「幸せなら手をつなごう」というスローガンを掲げ、日本で唯一「幸」という字が入った市である幸手市は、都心からのアクセスも良く、静かな住環境が魅力です。
幸手市は子育てもしやすく、ベッドタウンとして栄えている住みやすい場所でありながら、古くからの歴史を感じられる場所でもあります。
圏央道が開通したことにより、横浜、厚木、八王子、つくば、成田、木更津などの都市との連絡が取りやすくなり、圏央道幸手インターチェンジの東側では、幸手中央地区産業団地の工事も進められています。
この記事では、幸手市の歴史と指定文化財をご紹介します。
幸手市に住みたいと考えている方、幸手市で観光できる場所を探しているという方は、ぜひ参考にしてみてください。
目次
幸手市とは
東京都の中心部から約50kmの位置にある幸手市は、関東平野のほぼ中央、埼玉県内では東部地域の北寄りにあります。
ほとんどが利根川と渡良瀬川の氾濫によって形成された沖積層で、過去には水害に苦しめられた地域だということが窺い知れます。
1960年代からは東武日光線沿いを中心に住宅地化が進み、1972年に日本住宅公団の幸手団地がつくられて人口が増加しました。
権現堂川堤は日本でも有数の桜の名所として知られ、1916年に洪水に備えて植樹された3,000本の桜が見事に咲き誇ります。
桜は幸手市のシンボルとして、市の花に認定されていて、市章は桜をモチーフにしたデザインとなっています。
幸手市の歴史
1956年にいくつかの村が合併してできた幸手市は、1986年に市制が施工され、現在に至るまで、さまざまな歴史を経ています。
ここからは、幸手市の歴史についてご紹介します。
縄文時代から人が住み始める
縄目模様がついた縄文土器が作られていた時代を縄文時代といい、縄文時代は約15,000年前~約2,400年前という長い時代として歴史に残っています。
そんな縄文時代に、幸手市は海の底にあったとされていますが、東端の槙野地だけは下総台地の上にあり、当時住んでいたと思われる人々が狩猟、採集生活を送っていたことが、槙野地の遺跡の出土品などからわかっています。
その後、弥生時代から古墳時代にかけて、海岸線は現在とほぼ同じ位置となり、幸手市は湿地の中に自然堤防が作られていったと推測されています。
鎌倉~室町時代に「幸手」の名称ができる
奈良、平安時代になると平将門伝説が各地に残されるようになりますが、それは中央との交通が開けてきたことが原因だと考えられています。
鎌倉時代から室町時代にかけては、幸手には鎌倉街道が通っていたこともあり、源頼朝、源義経、静御前、西行法師などが足跡を残しています。
室町時代以降は古賀公方の家臣である一色氏の領地となり、現在の幸手駅周辺には陣屋が築かれていたといわれています。
慶長4年頃の手紙に「幸手領幸手町」と書かれていたことから、約400年前には幸手という地名が一般的に使われるようになったのではないかと考えられています。
江戸時代には幸手宿として栄える
江戸時代になると、交通の要地として幸手は繁栄しはじめ、五街道のひとつである日光街道と御成道が合流し、筑波道が分岐する宿場町として栄えました。
宿場町とは名前の通り、宿泊する場所として、公家や宮家も泊まる公式の宿屋である本陣や脇本陣なども置かれています。明治時代になり鉄道が開通されるまでの間は、宿場町は人々の交流の場として栄えていたとされています。
日光街道は江戸の日本橋を起点とし、日光までを結ぶ約140kmの街道です。この街道沿いには21の宿場が置かれていて、江戸時代には参勤交代の行列も多く見られた場所です。
幸手は日本橋から数えて6つ目の宿場町として栄えた場所で、現在の市街地の基盤がつくられたとされています。
幸手宿は長さ585間(9町45間)、道幅6間、家数962軒、人数3937人、本陣1陣、脇本陣1軒、旅籠27軒となっていて、城下町に併設されている宿を除くと千住宿、越ケ谷宿に次ぐ日光道で3番目の大きさを誇っていました。
幸手市の指定文化財
文化財には大きく分けて以下の7つの種類があります。
- 有形文化財
- 無形文化財
- 民俗文化財
- 記念物
- 伝統的建造物群
- 埋蔵文化財
- 文化財の保護技術
このように、とくに重要で保存の必要があるものを指定し、保護と活用が図られているものを指定文化財といいます。
ここからは、幸手市にある指定文化財をご紹介します。
マリア地蔵
江戸時代の徳川幕府では、キリスト教の信仰を禁止していて、キリスト教は弾圧され改宗を迫られました。
そのため、キリスト教を信仰していた方は、表向きは改宗したことを装って、密かに信仰を守り続ける隠れキリシタンとなる方もいました。
幸手市大字権現堂にあるマリア地蔵は、隠れキリシタンの信仰を伝えるものとして残されていて、聖母マリアとキリストの姿を仏像になぞらえて表現したものと考えられています。
マリア地蔵は権現堂集落農業センター敷地内で発見されました。
マリア地蔵は錫杖の上に十字架が刻んであることや、キリスト教の仮託礼拝物であるヘビや魚が刻んであること、イエスをカモフラージュした「イメス」と刻んであることなどから、隠れキリシタンの信仰の対象であったとされています。
幸手義賑窮餓之碑
天明3年(1783年)に起こった浅間山の大噴火は、火砕流、溶岩流などが村を埋め、死者は2万人ほどにもなる大きな災害として語り継がれています。
このとき、権現堂川には壊れた家や生活用具などが流れ着き、真夏であったにもかかわらず気温が低下して作物が育たなかったことで、飢えに苦しむ人が増えたとされています。
正福寺の境内にある幸手義賑窮餓之碑は、浅間山の大噴火による冷害と大飢餓で、幸手宿で難民が続出した際に幸手宿の義人21名が、米や金を出し合い幸手の民を救ったという善行を讃えて建てられた碑です。
21人の有志は約70日間、難民に対して粥を施すなどの救済をはかりました。これらの善行が、今では善行活動のはじまりといわれています。
橘守部の書簡
天明元年(1781年)に伊勢国小向町(三重県朝日町)に生まれた橘守部は、17歳で江戸へ出て国学研究を志し、29歳で内閣府間村に転居しました。
その後江戸に戻るまでの20年間を幸手で過ごした橘守部は、当時国学研究の主流とされていた本居宣長の学説に対抗し、独自の学説の確立に努めました。
後に天保の国学四大人の1人として古典研究の著書を残し、穿履集をはじめとした多くの和歌を残していることでも有名です。
門下生は200名に及ぶとされていて、橘守部の書簡は市指定有形文化財として幸手市郷土資料館に保管されています。
順礼の碑
享和2年、長雨で水位が高まった利根川が決壊し、土手の修復にあたっていた人々が、激しい濁流によって工事をなかなか進めることができずにいたところ、そこを通りかかった順礼親子が自ら人柱を申し出ました。
順礼親子が逆巻く流れに身を投じ、人柱となったことでたちまち洪水はおさまり、修復の工事も完了させることができたといいます。
人柱となった親子を供養するために、昭和8年に権現堂堤の中央に建立されたのが順礼の碑で、昭和、大正の有名な日本画家である結城素明による母子順礼の姿が刻まれています。
平将門の首塚
大字神明内にある浄誓寺の本堂裏手には、高さ3メートルほどの将門の首塚が築かれています。
平安時代に平将門の乱を起こした平将門は、平貞盛、藤原秀郷と戦いの末、大宮の武蔵武芝を頼って逃げますが、途中の轡瀬沼(くつあぜぬま)を超えることができず、幸手に逃れました。
そこで赤城に討たれ、言い伝えでは家来がこっそり首を埋めた、愛馬が首をくわえてきたなどさまざまな説があります。
将門の首塚は東京都の大手町にある首塚が有名ですが、実際どちらに本当に平将門の首が埋められているのかは定かではありません。
聖福寺
聖福寺にある勅使門が市の指定文化財に指定されています。徳川三代目将軍家光が日光社参の際に、御殿所として使用したのをはじめとして、天皇の例弊使や歴代の将軍が18回にわたり休憩したとされています。
聖福寺には将軍の間、例弊使の間とともに菊の紋章がはいった勅使門があり、左甚五郎が作成したとされる彫刻も保存されています。
勅使門は徳川将軍や日光例弊使が来たときにしか開けられることはなく、将軍と例弊使以外は通行できなかったとされています。
まとめ
幸手市の歴史と指定文化財をご紹介しましたが、参考になりましたか?幸手には古くから人々が生活していたと思われるものも残っていて、歴史の深い場所だということがわかります。
過去には水害によって苦しめられたこともある利根川も、現在は人々を癒す川として存在し、権現堂川堤に植えられた3,000本の桜は春になると見ごろを迎え、多くの方々が幸手の桜を見に訪れる場所となっています。
江戸時代には幸手宿として存在していたため、街中では宿場町の名残がいたるところで感じられ、マップを見ながらまち歩きをすると、当時を感じられる場所を見つけることもできます。
幸手市にキャンパスがある「日本保健医療大学」では、幸手市とともに地域への貢献活動を実施しています。
「日本保健医療大学」は、看護師、理学療法士を目指す方が通う4年生の大学で、2020年12月には幸手市と、地域課題に迅速に、適切に対応し、活力ある地域社会の形成と発展、および人材育成に寄与することを目的とした包括的連携協定を結んでいます。
幸手市挨拶運動への参加や小学校での心肺蘇生授業、子育て支援祭りへの参加など、「日本保健医療大学」は学びの場所であるとともに、将来看護師や理学療法士を目指す学生たちが、地域貢献への意識を高める場所にもなっています。
将来看護師や理学療法士を目指しているという方は「日本保健医療大学」までお気軽にお問い合わせください。